結果をどう受けとめるかは、わたしの自由なのだ。

作者ダイアリー

わたくしは、
先日、ちょっとしょげることがありました。

応募した童話賞が、
また、「ざんねんな結果」になってしまったのです。

実はここのところ、
童話賞によく応募しています。
2025年の年末は怒涛の応募ラッシュで、
書いては送り、書いては送りを、
くりかえしておりました。

童話賞の入選者は、佳作などもふくめて、
ほとんどの場合5人ほどですから、
しかたないっちゃあ、しかたないのです。
こんなことで、いちいちへこんでいては、
前に進めません。

でも、やっぱり、
ひらめいて書きあげた思い入れのある作品が、
1次審査もとおらないっていうのは、
けっこうショックなもんです。

わたしはメンタルがガラスなので、
まるで自分を否定されたような、
そんなきもちになってしまうのですね。
こまったもんです。

さらに言えば、おはずかしながら、
わたしは応募時に「うまくいく想像」を
フクフクとふくらませるタイプです。

「入賞したら誰に教えよう」
「表彰式には何を着ていこう」
時には、
「ひとりでこんな遠くの会場まで行けるかなあ」
なんて、心配すらし始めてしまう始末です。
楽しいことは、どんどん想像したいですからね。

でも、だからこそ、
ざんねんな結果になると、
ずどーんと落ちこんでしまうのかもしれません。

先日も、
「あの童話賞の結果は出たのかなあ」
と、HPをのぞいてみたのですが、
とっくに入賞者が発表されていたんですね。

「え?これ今年の結果?令和何年?
入賞者ってこれだけ?」
わるあがきをして、
HPの一番下のすみずみまで確認しましたが、
結果にかわりはありませんでした。

まったくもって、「ざんねん」です。

最優秀賞の方の書いたお話は、
とってもおしゃれなタイトルでした。
きっと、わたしには思いつかないようなアイデアを、
すばらしい文章力で表現しているのだろうなあ。
そんなことを考えていると、
なんだか自分の作品が少しちっぽけに見えてきて、

「わたしって、才能ないのかなあ」
「夢見ちゃってはずかしいなあ」
「これからもずっとこうなのかなあ」
なーんて、しょげてしまうのです。

お話が、やや暗くなってしまいましたね。
すみません。

でも、わたしはこういう時、
結構、ガッツリ落ちこむことにしているんです。

落ちこんでいるのに、それを認めずに、
「でも前向きに!」とかいって平気な顔をしていると、
傷が癒えないまま残ってしまいますからね。

人間、不思議なもので、そんなことがあっても、
おいしいもの食べて、寝て、話聞いてもらって、
「ざんねんだったね」
「うん、ざんねんだった」
なーんていっていると、少しずつ谷を抜けるものです。

最近は、そのくらいまで回復したら、
こんなことを考えます。

その結果になった背景には、
どんなことがあったんだろうってことです。

結果だけを見ると「ざんねん」ですが、
それにいたる背景は誰も知ることができません。
どんなことが起きた可能性があったのか、
自由に考えてみるんです。

たとえば…、

入賞は5人だけど、わたしが6位だったのかも、とか。
(順位は発表されませんから)

5位と6位は接戦で、すごくわたしの作品を
推してくれた審査員の人がいたのかも、とか。
(気に入ってくれた人が、いただけでうれしい!)

その審査員の人が
「アイデアはいいから、今後に期待できるかも」と
思ってくれたかも、とか。
(今、成長過程ってことですもんね!)

さらに、その審査員の人が、
わたしの名前をおぼえてくれたかも、とか。
(爪あとはのこせた!って感じがする!)

もっと言うと、
その後、別の童話賞に応募したら、
たまたまその人がまた審査員をしていて、
「あ、あの人だ、成長したじゃん!」って
思ってくれるのかも、とか。

あわよくば、その童話賞に入賞して、
インタビューで今の時代のことを
思い出として話せるのかも、とか。

その時、審査員の人に、
「実はあの時から知っていたんだよ」って声かけられて、
「うれしいです~!」って言うのかも、とか。

そして、その方はその後も良い師として、
長くうれしいおつきあいができるのかも……、とかです。

ここまでいけば、ほぼ妄想ですが、
想像力はタダですからね、
とんでもないこともどんどん想像しちゃうんです。

そうすると、今の「ざんねんなこと」は、
「良い流れの一部なんだ」っていう気がしてくるのです。

だって、背景や未来は誰も知らないんですから、
わたしがこれからも、
夢に向かって楽しく生きていけるように、
自由に受け取っていいじゃないですか。

生きていると、どうしても時々、
「ざんねんなこと」があります。

もちろん、
考え方ではどうにもならないほどつらいことも、
たくさんあると思います。

でも、その「ざんねんさ」のいくつかは、
もしかしたら、
これから起きるすばらしい結果の
一側面になるのかもしれないなと、
わたしは思いたいのです。

その意味がわかるのは、すぐではないかもしれない。
10年後かも、20年後かも、30年後かもしれない。

だから、それまで、
自分が前を向いて希望をもって生きていけるように、
自分の人生の「結果」は、
自由に受け取っていいのではないかと思うのです。