「幸福の猫」
その猫は、とにかくまっ黒な猫でした。
頭の先からしっぽの細いところまで、どこからどこまでも、ぜんぶまっ黒でした。
毛なみはつやつやでビロードのよう、
2つのきりっとした目だけは、やたらと深い水色で、
まるでどこかの島のガラス玉のようでした。
そのとにかく黒い猫は、みなに「きこり山」と呼ばれる、
背ばかり高い木の茂る山の細い道を、ひたひたと下っていました。
やがて、山のふもとまでたどりつくと、ふた手に別れた道で立ちどまりました。
とにかく黒い猫は、つんと頭を上げて、右の道へ歩いてゆきました。
右の道は、まもなく「右の村」にたどりつきました。
右の村は畑の村でした。
今夜は収穫のおまつりで、村人たちは準備に大忙しでした。
広場には色とりどりの布がかけられ、
あちこちのテーブルには、果物や穀物が山のように置かれていました。
村人はみんなばたばたと走りまわり、とても嬉しそうでした。
とにかく黒い猫が、それを横目で見ながら歩いて行くと、
広場の空気がざわっとしました。そして、
「あれまあ、まっ黒な猫だこと。」
と言う、ひそひそ声が聞こえてきました。
「本当にねえ。不吉なことがなきゃあいいけど。」
猫が広場の真ん中まで歩いていくと、
女が大きな体をゆさゆさと動かしながら、やたらと大きい声で言いました。
「ほら、いそがないと間に合わないよ!
その棚はもっと真ん中って言っただろうに。なんでわからないんだろうね。
これ、つまみぐいをするんじゃないよ。
これは神様にさしあげる食べ物なんだからね。」
若い男は「へい、おかみさん」と言って棚を動かしました。
そして怒られた女の子は、えへと笑って持っていた赤い実を棚に戻し、
ふりかえった時、黒い猫に気づきました。
「あ、ねこだ。」
「これ、汚いからさわるんじゃないよ!」
おかみさんが女の子の手を引っ張りました。
「なんてまっ黒な猫だろうね。目ばっかりぎょろぎょろして。
しっしっ、縁起が悪いからあっちへお行き。」
そう言って、猫を追い払いました。
黒い猫が広場のはじへ逃げて行った、その時でした。
ざああぁぁぁぁぁぁ
と音がして、体を打つようなはげしい雨が降ってきました。
村人たちはちりぢりに家の中へ逃げ込みましたが、
食べ物はぬれ、おまつりはだいなしになってしまいました。
軒下にたたずむ猫の耳には、
「嫌な予感がしたんだよ、私は。」
という声が聞こえてきました。
そしてその雨もやまない内に、おかみさんの家に手紙が届きました。
それは、はなれて暮らすおかみさんのお父上が亡くなった、という手紙でした。
おかみさんは泣き崩れて言いました。
「あの黒猫が来た時から悪いことが起きる気がしていたんだよ。あの猫は魔女の猫だよ!」
そして、おかみさんは掃除用のほうきを持って外へ飛び出すと、
鬼のような顔で猫を追い払いました。
とにかく黒い猫は、右の村をはなれました。
茂みを抜けて歩いていくと、先ほどの左の別れ道に出ました。
その道は「左の村」に続いていました。
左の村は職人の村でした。
まだ雨は降っていましたが、村人は広場に大きなテントを張り、
そこに女と子供が集まって、かご細工を作っておりました。
びっしょりとぬれた黒い猫が広場に入ってくると、子供たちが見つけ、
「こっちへおはいり!」
と、言いました。
「おやおや、ずぶぬれじゃあないの。なにか布を持ってきておやり。」
こげ茶色のちぢれた髪の女の子が、
家からふくものを持ってきて、黒い猫をつつんでやりました。
そして、左の村のおかみさんは言いました。
「しかしよく降るねえ。そろそろかごを売りに行きたいのにさ。」
するとその時でした。
サアアァァァァァァ
と、音がするように雨雲が去り、明るい太陽が顔をのぞかせました。
それを見た女の子が、こう言いました。
「すごい!黒猫さんが太陽をつれてきてくれた!」
そして女の子は、黒い猫の頭をざわざわとなでました。
左の村のおかみさんも、
「ありがとうね、黒猫さん。これでかごを売りに行けるよ。」
と、言いました。
するとそこに、馬に乗った旅のものがやってきて、テントのものたちに言いました。
「この辺りには、世にも美しいかごを作る村があるというが、こちらか?」
「はい、そうでございます。」
「城で使うために、こちらの村のかごをすべてゆずってはくれまいか?
みなさんの望むだけの金を払おう。」
村のものは大喜びで、ある限りのかごを持ち出し、
袋にいっぱいの金貨と交換をしました。
そして、左の村のおかみさんは、
「ああ、よかった。これでみんな冬を越せるよ。
黒い猫さん、あんたは神様の使いなんじゃないかい?」
と、言いました。
それから左の村のおかみさんは、
黒い猫を家に連れてかえり、温かいスープを飲ませ、
「ありがとう、ありがとう。」と、何度も猫に手をあわせました。
次の日には、幸運の黒猫の話は村中に広がり、
左の村のおかみさんの家の前には、
猫に一目会わせてくれと村人たちの行列ができ始めました。
そして黒い猫に魚や肉をあたえては頭をなで、
なにかおねがいごとをして帰ってゆきました。
やがて、
「この黒猫を、私たちの幸福の猫として大切にしようじゃないか。」
と、おかみさんに持ちかけるものが出てきました。
とにかく黒い猫は、
水色のガラス玉のような目で、だまってその人々を見ていました。
その日の夜がふけたころ、
とにかく黒い猫は、中でもいちばん大きくてりっぱな魚をくわえて、
左の村のおかみさんの家を出ました。
そしてひたひたひたひたと「きこり山」に続く坂道を登ってゆきました。
山の中腹をこえたころ、道のわきに小さな山小屋が見えてきました。
窓には灯りがともり、煙突から白い煙がするすると上がっていました。
黒い猫の水色の目が、それを見ました。
温かい山小屋の中では、
暖炉の前できこりのおじいさんが、友人の黒猫を待っていました。
おじいさんは2日前、森の中で体の具合を悪くしてたおれ、
町の病院に運ばれていたのでした。
急なことで置いてきてしまった黒猫のことを心配して、急いで帰ってきたのです。
黒猫がするりと山小屋に入ってくるのを見ると、
おじいさんはふわっと顔を明るくしてゆっくり立ち上がり、
「バディ、どこに行っていたんだい。」
と、言いました。
バディと呼ばれたその猫は、くわえていた魚をぽとっと落とすと、
「ミヤァァァァアオウ!」
と、返事をしました。
「そうか。私を探してくれていたんだね。」
とおじいさんは言って、黒い猫の黒い頭を、やさしくやさしく何度もなでました。
ふたりはその夜、ただ暖炉のそばに座り、
ただ一緒に魚のスープを飲み、ただふたりでそばにいました。
おじいさんは、病気がどんなにこわかったか、
どんなに黒猫を心配したのか話して聞かせました。
黒い猫は、この魚がどうやって手に入ったのか、
そしてどんなにおじいさんを心配したのか話して聞かせました。
この山小屋の中には、肩書きもなにもない、
ただ2つの生きているというあかりが灯っているだけでした。
でも、とにかく黒い猫には、これがいちばんの幸福なのでした。
おしまい