「不安て、結局なんなのさ。」と思った話。

作者ダイアリー

先日、眼科へ行きました。
具合が悪いわけではなく、
そろそろ一度、検診を受けておかなければと
思ったからです。

わたしは、子供のころから、
すこし乱視はあったものの、両目が2.0でした。
大人になって、1.2くらいに下がりましたが、
それ以降はこれと言った問題もなく、
最後に眼科へ行ったのはなんと15年ほど前、
目にカビ用の洗剤が飛んで、
焦ってかけこんだとき以来だと思います。
(ちなみにその時も、異常がありませんでした。)

ですが、2020年のコロナ禍からは、
なれないパソコンを使うことも増え、
物が二重に見えるようになってしまっていたのです。

「眼科に行かなければ…。」と、
ひしひしと思い続けながら行かなかった、
その理由はたったひとつ、
そう、こわかったからです。

なにがこわいって、
・不安1…メガネが必要と言われるかも。
(→お金がかかる。)
・不安2…乱視が進んでいるだろう。
・不安3…ブルーライトで網膜も心配。
・不安4…緑内障、白内障の予備軍と言われるかも。
(→パソコン業務ができなくなるかも。)
・不安5…そもそも眼科がこわい。
(子供のころ、目に注射をしている人を見てしまった。)

つまり、こんな現実を宣告されるのが、
こわかったということですね。
まったく、お恥ずかしい話です。

まあ、そんなわけで、
わたしは視力の低下を感じてからなんと1年ほどの間、
不安をムクムクとつのらせながらも、
眼科検診を、先のばし先のばしにしてきた
というわけなのです。

重い腰をあげて予約した検診の日の朝は、
「神様、なにもありませんように。」と、
深く信仰もしていないのに図々しくお願いをして、
ビクビクと眼科の門をたたいたのです。

ガチガチに緊張してひと通りの検査を終えた後、
診察室へ通されました。
最後の審判を待つわたしに、女医先生が言ったのは、

「なーんにもありませんでした!」

というあっけらかんとした答えでした。
拍子抜けしたわたしは、

「え?ないんですか?」

と、まるであった方がよかったかのように
思わず聞き返してしまいました。

乱視は少し進行していたものの、
視力は1.2と1.0でほぼかわらず、
病気などの所見もナシ、
次の検査は数年後でOKというお話でした。
まったくありがたいお話です。

帰り道、不安から解放されたわたしには、
それはもう、世界がキラキラとまぶしく見えましたね。
(瞳孔を開く目薬を点眼していた、という理由もありますが)

そして、
「あの、一年間の不安はなんだったのさ。」と、
ひとりニヤニヤしながら歩いたのでした。

今回の件で、つまりなにが言いたいのかというと、

「不安な想像=現実」

ではないってことなんです。

人間の脳は、ひとつの不安の種を見つけると、
いろいろなことを一瞬で連想しますね。
あれこれと絶望する結末を想像し、
「ああなるかも、こうなるかも。」と、
気持ちを重くしてしまうのです。

わたしの出来事を読んで、
「これ、大してこわくないけどなあ…。」
と思った方もいたのではないでしょうか。

眼科経験のないわたしにはこわいけれど、
慣れている人には、こわくない。
人前で話すことがこわい人はいるけれど、
表現をしてきた私には、こわくない。

つまり、「不安」は、
自分の価値観が作った想像の産物なんですよね。
架空のばけものなんですよ。

少し調べてみましたら、
ある認知療法の研究では、
人間が不安に思うことのうち、
実現するのはほんの13%なのだそうです。

その13%のうち、80%は自分で対処できるもの。
つまり、本当に対処できないほど絶望する現実は、
2.6%しか起こらないというのです。

もちろん一概には言えませんが、
実際に、一年間ためこんだ私の不安は、
「乱視の進行」しか現実化しなかった
というわけなのです。

「不安を考えるな。」と、
むりやり思う必要はないと思います。

マンモスがいた時代に、人間が絶滅しなかったのは、
不安という感情があったから。
つまり不安は、危機回避能力のひとつで、
不要なものではないのです。

大切なのは、

「不安=現実ではないと知っていること」

なのかなとわたしは思います。

不安をつのらせていた出来事があった方は、
ぜひ、積極的にその結果を考えてみてください。

「あれ?あの不安は、ほとんど実現しなかったんだな。」

と気づけたら、
この先、生活がすこし楽になるかもしれません。